ウォーレンバフェットの人生
誕生
1930年、ネブラスカ州オマハで、ハワード・バフェットとレイラ・バフェットの息子として生まれる。
初の株を購入
1941年、姉のドリスと共にシティ・サービスの優先株を1株38ドルで3株購入した。
その後、1株27ドルまで下落した。バフェットはドリスに対して責任を痛感し、1株40ドルまで値を戻したところで売却したが、シティ・サービス株は長期的に上昇し続け、200ドルになった。
しかし、この経験がのちの考え方に大きな影響を与えることになったと語っている。
学生時代
1942年に下院議員に当選したためワシントンD.C.に引っ越したが、当時12歳のバフェットは新しい生活になじめず、祖父の家からオマハの学校に2年間通う(飛び級したため)ことになった。
中学を卒業したバフェットはワシントンD.C.に戻り、高校に進学する。
1947年、17歳には友人と古いピンボールマシンを25ドルで買い、理髪店に置くというビジネスを開始。町中の理髪店に7、8台置くまでに拡大したほか、貯金も5000ドルに達することになった。
グレアムとの出会い
1947年にペンシルベニア大学ウォートン・スクールファイナンス学科に入学したが中退し、ネブラスカ大学リンカーン校に編入し、卒業。
その後、コロンビア大で『賢明なる投資家』の著者ベンジャミン・グレアムが教えている事を知り、大学院に入学。
卒業する時、グレアムのグレアム・ニューマン社で働きたいと頼み込むが、ユダヤ人でないという理由で断られる。
結婚
1952年、スーザン・スージー・トンプソンと結婚。スーザン、ハワード、ピーターという3人の子どもに恵まれた。
グレアムとの再開、会社の設立
1954年、グレアムがバフェットにニューヨークでの仕事を紹介。
バフェットは、2年間、教授の会社グラハム・ニューマン(Graham-Newman Corp.)のアナリストとして働いた。
1956年、ベンジャミン・グラハムは引退したため、バフェットは愛するオマハで自ら「Buffett Partnership Ltd.」を設立した。
1957年にさらに2つのパートナーシップを追加でつくり、合計5つパートナーシップを運営した。
1962年、バフェットは、自身が所有するすべての会社を合併し、バークシャー・ハサウェイという繊維会社に投資した。
〜現在
バフェットはその後もディズニーなどに投資を行なっていった。
失敗などもありつつも、バフェットは株は持ち続けること、貸借対照表などの現れる数字だけが投資の目安ではないことと語っている。
2008年、投資を続けていたバフェット氏は過去13年間にわたって世界長者番付トップのビル・ゲイツを抜いて、1位となった。
まとめ
今後は彼の考え方についても取り上げていくのでぜひチェックしてください。
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