第1回 スティーブ・ジョブズ生き方から学ぶ | 偉人図鑑

令和の教科書
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ジョブズの人生

誕生

1955年2月24日、ジョブズはサンフランシスコで生まれ、カリフォルニア州マウンテンヴューに住むポール・ジョブズ、クラリス・ジョブズ夫婦の養子となる。

1958年、スティーブが3歳になった頃、実父母の間に実妹・モナが生まれる。同時期にジョブズ夫妻がパティーを養子にもらい妹ができる。

1960年には、カリフォルニア州パロアルトに転居。

とある女性教師との出会い

1965年、4年生になったスティーブはヒルという女性教師と出会う。

ヒルは、うまくやる気を出させ、ジョブズは勉強に打ち込む。成績は上昇し、6年生への飛び級が決まる。後年ジョブズは「ヒル先生やその他の恩師に出会わなければ、間違いなく刑務所に入るはめになっていただろう」と語っている。

クリッテンデン中学に入学するも、いじめをうけスティーブはクパティーノ中学校に転校することになる。

スティーブの大胆な行動

1968年、スティーブが13歳の時、ヒューレット・パッカード社のCEOビル・ヒューレットの自宅に電話をかける。

ヒューレッド・パッカード社とは、主にコンピュータやプリンターなどのコンピュータ関連製品の開発や製造を行っているかつて存在したアメリカの企業である。

そんな大企業にスティーブは、「周波数カウンタの部品をください」と電話をかける。

するとビル・ヒューレットは部品を譲るだけでなく、夏休みにアルバイトをしないかと誘い、

スティーブのアルバイト先はヒューレット・パッカードの支社で、周波数カウンタを作っている会社となる。

この秋、スティーブはホームステッド高校に13歳で進学する。

親友との出会いと大学の中退

1971年、16歳のスティーブは友人の紹介で当時21歳のスティーブ・ウォズニアックと知り合う。

後にウォズニアックとスティーブ・ジョブズは共にAppleを設立する。

二人はブルーボックス(違法な電話)を作成し、利益を上げる。

1972年、高校4年生になったスティーブはLSDの使用を始める。

1972年9月、スティーブはリード大学に入学するもわずか半年で中退。

後にスティーブは「両親が一生懸命貯めた貯金を意味のない必修科目の履修に使うのに罪悪感を覚えた。」と語っている。

しかし中退後も、18ヶ月間、哲学やカリグラフィーなど興味のあるクラスだけを聴講する。

アタリ入社とインド渡航

1974年2月、実家に戻ったスティーブはアタリを訪ね、「雇ってくれるまで帰らない。」とアタリのトップのノーラン・ブッシュネルを引っ張り出します。

こうして50人しかいないアタリの社員のひとりとなった。時給5ドルの技術作業員だった。

同年、ジョブズはインドを旅行する。アシュラムと呼ばれる修行所で、ラリー・ブリリアントという人物と知り合いになる。

のちにGoogleの事前事業部門とスコール財団を統括するようになる人物である。

1975年、アタリに復職し、その夏、スティーブはブッシュネルから直々に新製品”ブレイクアウト“の

回路の部品減らしを命じられる。

スティーブは部外者のウォズニアックを夜分に招き入れ作業を頼む。

Appleの創業

Appleの由来

1975年3月5日、ゴードン・フレンチとフレッド・ムーアが立ち上げたクラブの第一会合に参加したウォズニアックが、マイクロプロセッサーの仕様書を見たきっかけにパーソナルコンピューターのビジョンを思いつく。

1976年にスティーブ・ジョブズ氏がスティーブ・ウォズニアックとともに、実家のガレージで「Apple」を創業。

Appleという社名を付けたことについて、ジョブズは「果実食主義者の主要な食べ物のひとつだから」と語っています。続けてジョブズ氏がリンゴ農場から戻ったばかりのときに「Appleという名前は活発で面白そうだし、高圧的ではない印象であると考えた」とも述べている。

ウォズニアックがほぼ独力で開発したマイクロコンピューターで、この「Apple I」の成功を機に翌年Appleは法人化となる。

「Apple II」とその後の業績不振

その後1977年に「Apple II」が発売される。

当時においては革新的なコンピューターだったため、「Apple II」は販売台数500万台を超える大ヒット製品となる。

しかし、その後に発売した「Apple Ⅲ」は、価格設定の高さとハードウェア設計上の欠陥が災いし、販売不振に陥いる。その後「Lisa」を発売。

しかし、Lisaも極端な高価格と、ソフトウェア互換性の欠如からユーザーを遠ざけ、立て続けに販売は伸び悩む。

「Macintosh」vs 「Windows」

そして、創業から8年後の1984年に、ジョブズがシンプルを追求した末に完成させた「Macintosh」を発売。

しかし、マイクロソフトのビルゲイツが「Windows」を発表。

それによってさらに業績不振へ。

Appleは初の赤字を計上従業員の20%にあたる人員削減を余儀なくされる。

「Steve Jobs」vs 「Bill Gates」

ジョブズは「WindowsはMacintoshを丸ごとパクっただけだ」と非難した。

ゲイツはAppleにそのアイデアを独り占めする権利はないと考えていた。

加えてゲイツは、「スティーブ、視点を変えてみたらどうだろう。どっちかっていうと、近所にゼロックスって名前の金持ちの家があって、僕がTVを盗みだそうとしたら、きみがすでに盗んだ後だったってことなんじゃないか」と皮肉を込めて言った。

そこからはお互いに泥沼になった。

ジョブズはビルゲイツのことを恥知らずや退屈などと罵り、ビルゲイツはジョブズを変人や人間として欠陥があるなどと非難した。

Appleを追放

1985年、ジョブズはAppleから追放

Appleを追放されたジョブズは退職の際にAppleの株式を1株だけ残しすべて売却。

それを元手にすぐさま、NeXT Computer を創業

1986年、ジョブズはルーカスフィルムのアニメーション部門を1000万で買収。

これがのちのピクサーとなる。

Appleへの復帰

ジョブズがいなくなったAppleは業績不振に悩んでいた。

この時好調だったジョブズはNeXTをAppleに売り込み、AppleはNeXTを買収し、1996年にジョブズはAppleに復帰することとなる。

Appleの快進撃

1997年に発売した「Mac OS 8」では NeXT Computer が開発した OPENSTEP のOS技術を導入し、大ヒットとなる。

1998年に発売した「iMac」では半透明の筐体を採用し、5色のカラーバリエーションは革新的でAppleに大きな売上をもたらした。

2001年に発売された、大容量のハードディスクドライブ型携帯音楽プレーヤー「iPod」がヒット。

2004年に発売した「iPod mini」はさらなる大ヒット。

2007年に発売された「iPhone」は、大ヒット。最高傑作とも言われる。

その後も次々と製品を出し続け、大ヒットを重ねた。

突然の死去

ジョブズは、2011年10月5日に膵臓癌で56歳の若さでこの世を去る。

この報道を世界中で話題になり、ライバルであったビルゲイツもこうコメントを残している。

「スティーブほどの深淵なインパクトを持った人はなかなかいないし、今後何世代にもわたって彼の業績にふれる機会があるだろう」

この世に革新的な変化をもたらした彼の人生はここで幕を閉じた。

まとめ

今回はスティーブ・ジョブスさんの人生についてまとめてみました。

参考になる方もいるかもしれませんね。

彼ほどのインパクトを残した偉人はなかなかいません。

また、彼の人生をピックアップしたものを取り上げる予定です。

その時は是非みに来てください!

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